旧オルト住宅 (64 画像)
長崎に残る石造りの洋風住宅の中で最も大きいものが旧オルト住宅。この家にはウィリアム・オルト(William Alt)が1864(元治元)年~1868(明治元)年の4年間、妻エリザベス(1847~1923)と2人の娘との4人で住んでいた。港に向かって突き出た切妻づくりのポーチ、 広いベランダを支える天草石が立ち並ぶ見事な景観、 車寄せの噴水など、当時の職人の技術の高さを感じさせる。大浦天主堂、旧グラバー住宅を手がけた小山秀之進によって施工されたこの華麗な建物は、今から140年近くも前に建てられたもので、重要文化財に指定されている。
このオルト邸は、1868(明治元)年にオルト一家が大坂へ移住した後、オルト商会の英国人従業員、ヘンリー・ハント(Henry Hunt)がオルト商会の長崎本店の責任者になり家族と共にこの家に引っ越した。ハント一家が神戸に移住した後の1880(明治13)年から2年間、創立期の活水学院校舎として使用され、そして1893(明治26)年から1898(明治31)年の間、米国領事館として使われた。
フレデリック・リンガーがこの建物を購入したのは1903(明治36)年のことである。彼が4年後に他界した後は、カロリーナ夫人がここに住み、第一次世界大戦中の募金活動バザーやその他の行事の会場としても利用した。カロリーナ夫人は体調を崩して1921(大正10)年に英国に帰り、その3年後にロンドンで帰らぬ人となったが、長男のフレデリック(フレディ)・リンガー2世は、弟のシドニーと共にホーム・リンガー商会の運営を担いながら、旧オルト住宅に妻と娘とともに住み続けた。
1914(大正3)年、フレディの一人娘、アルシディ・ジェニー・リンガーがこの住宅で生まれた。長崎での幸せな幼少時代と英国での留学を終え、長崎の両親の元に戻ってきた彼女は絵画や「盆景」といった日本文化に傾倒した。1936(昭和11)年10月、彼女が大北電信会社に勤めるデンマーク人フォルマー・ビュルグフェルト氏と結婚し、その後横浜に移住した。
1940(昭和15)年にフレディが無くなり、アルシディ夫人は12月8日の太平洋戦争勃発の日までここから動こうとせず、旧居留地の最後の外国人住民となった。彼女は日本の警察に拘留され、翌年に横浜から出航する交換船で本国に送還された。
香焼島で造船所を運営する川南工業は、1943(昭和18)年に旧オルト住宅を獲得し、1945(昭和20)年9月に米国占領軍の接収に応じるまで、従業員住宅として利用した。占領軍が昭和20年代後半に長崎を去った後、土地と建物は川南工業に返還され、その後20年の間アパートとして使われた。
1970(昭和45)年、旧オルト住宅派長崎市に購入され、2年後には国指定の重要文化財となった。1977(昭和52)年から2年間の修理工事を経て、グラバー園で一般に公開された。

●ウィリアム・オルト(1840~1905)
イングランド出身。開国とともに、いち早く長崎にわたりオルト商会を設立。長崎の大浦慶と提携して、九州一円から茶を買い求め輸出業を行った。また、土佐藩との関係が深く、土佐藩はオルト商会から多くの船や武器を購入している。1867(慶応3)年4月に起こったいろは丸事件(坂本龍馬らが乗ったいろは丸が紀州藩船と衝突・沈没した事件)でも、オルトに相談したことがあったようだ。岩崎弥太郎の日記によれば、5月22日聖徳寺での談判のあと、龍馬は後藤象二郎・岩崎弥太郎らとオルトを訪ねている。
製茶業で巨額の利益を得た彼が1865年に建てたオルト邸は本格的洋風建築だが、これを建築したのは大浦天主堂も手掛けた小山秀之進。「長崎は本当に美しいところで、これ以上美しい所を私は知らない」彼の妻エリザベスは、後の回想録に長崎の印象をこう書き残している。
4年間長崎で生活した後、大坂で1年半、横浜に2年間滞在している。

●大浦慶(1828~1884)
オルトが製茶・販売の事業で手を結んだ大浦慶は、長崎屈指の油問屋に生まれたが16歳の時に大火事に見舞われて家が傾いてしまった。しかし、25歳の時に茶の貿易をはじめ見事に家を再興させた。彼女は長崎三大女傑の一人として知られている。

●グラバー園
●旧ウォーカー住宅
●旧リンガー住宅
●旧グラバー住宅
●旧スチイル記念学校
●旧長崎高商表門衛所
●旧三菱第2ドックハウス
●旧長崎地方裁判所長官舎
●旧自由亭

・長崎県長崎市南山手町8-1
公式ホームページ

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