茶室「亦楽庵」 (3 画像)
「水を運び薪を取って湯をわかし、茶を立て仏に供え、人にも施し我も呑なり。花を立て香をたきて、皆々仏祖の行ひの跡を学ぶなり」(南方録)と千利休が教える茶の湯。上下貴賎の隔てなく、日本人の自然観、宗教観、芸術観によって伝えられてきた茶道のための舞台装置としての茶室は、また日本人の建築美学の追求でもあった。
門から待合へ、そして露地、蹲踞へとめぐるうち、小さな庭に人は大自然を感じ、これから訪れる語らいの時に胸を開く。そして二間四方に満たない小さな空間で、茶を仲立ちに悠久の時を過ごすのである。
利休の目指した茶室では、華美や豪華は極力避けられ、素朴な構成が追求された。又、庭の自然の只中にありながら四方の壁をきっちり囲み、窓には単なる明かり採りとしての意味しか持たせず、狭い空間に大自然を創造しようとした。
「亦楽庵」では京都の医家、漢学者であった、福井恒斎が、1877(明治10)年頃自宅の庭に建てたものと伝えられる。
利休以後、茶室は様々な形が創出されるが、その多くは、より小さな空間へと向かい、閉じられた形が継承されてきた。しかし、この「亦楽庵」では開け放つ試みがなされており、利休四畳半(本勝手)の茶室の一方に引き違い障子戸を建て、瓦を敷いた土間を介して庭との結び付きを求めている。

・愛知県犬山市内山1 博物館明治村3-28
公式ホームページ

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