平尾山荘 (23 画像)
平尾山荘は、女流歌人として幕末に活躍した野村望東尼(ぼうとうに)が過ごした山荘である。
野村望東尼は1806(文化3)年、黒田藩士浦野重右衛門勝幸(300石)の三女として、福岡城の近傍南谷の御厩後(現在の中央区六本松三丁目付近)に生まれ、名を「もと」といった。1829(文政12)年同藩士野村新三郎貞貫(さだつら)の後妻となり、夫と共に大隈言道(ことみち)に師事した。その後、夫とともに1845(弘化2)年、平尾山荘に移り住んだ。

音もなき 寛の水の したたりも たりあまりたる 谷の一つ家

これは、もとがこの山荘を詠んだ和歌の一つである。
1859(安政6)年夫と死別し、博多の曹洞宗明光寺住持元亮巨導禅師によって剃髪し、望東尼と称した。このころから勤王の志を抱き、山荘は福岡藩士平野国臣、中村円太らの勤王志士交流の場となり、長州の高杉晋作も一時身を寄せたといわれている。
福岡藩による勤王派の弾圧「乙丑の獄」のため望東尼も捕らえられ、1865(慶応元)年姫島(現在の糸島市志摩姫島)に流される。翌年、高杉晋作の手配により救出され、下関へ逃れた望東尼だが、この山荘に戻ることなく、維新の直前の1867(慶応3)年11月6日、三田尻(現在の山口県防府市)で亡くなった。
当初の草庵は腐朽してしまったが、1909(明治42)年に組織された向陵会により復元され、その後望東会に引き継がれて再建され、現在は福岡市が管理している。

・福岡県福岡市中央区平尾5-2-28
公式ホームページ

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