シアトル日系福音教会(旧シアトル住宅) (20 画像)
日本からアメリカ本土への移民は、戊辰戦争に敗れた会津若松藩士数十名が1869(明治2)年カリフォルニア州に入植、若松コロニーを開いたことに始まると言われる。この試みは失敗に終わるが、日米間の労働力の需要・供給の関係で、日系移民は明治中期からその数を増し、1896(明治29)年シアトル航路が開かれたこともあり、明治末から大正期にかけて最盛期を迎えることになる。
一方、シアトルは1889(明治22)年町の中心部を焼き尽くす大火にみまわれたが、大改造をもって立ち直り、20世紀初頭からは漁業と林業の基地として発展していく。住宅地も周辺の山地を開発して新たに造成されていくが、この建物もその新興の住宅地の中に1907年(明治40)頃建てられたものである。
大量生産による規格木材を使用して造られており、現代のプラットフォーム構法(2×4構法)の先駆的な実例である。屋根には地元産のそぎ板を葺き、外壁、床等は全て下地板と仕上げ板の二重張りになっている。
当初はアメリカ人の住まいであったが、1930年代(昭和5年~14年)に日系移民の所有となった。アメリカに渡ってから長い苦難の年月を経て手に入れた一軒の家であったが、第二次世界大戦時、強制収容により家を追われた。戦後は日系一世のための福音教会として使われてきたが、一世の高齢化と減少という時の流れの中でその役目を終え、明治村に移築された。
玄関ホール正面に二階への階段が設けられている。細かい細工が施された階段の親柱は、プレハブ建築の通例通り、単に床の上に置かれているだけで、床下から釘止めされている。又、細かい細工も彫刻ではなく、細い木材を釘止めして作られたものである。
玄関ホール横の会堂は、住宅として使われていた時には二つの居間に分かれていたが、間仕切扉が散逸してしまっているため復原できなかった。規格木材を釘打ちして造る2×4構法では、仕口、継手の痕跡がないため、改造個所の元の姿を推定することが難しい。

●安武嘉一郎(1891~1953)
「シアトル日系福音教会」は一般的なアメリカの建売住宅で、最初に購入したのは安武(やすたけ)嘉一郎氏である。
嘉一郎氏は1891年福岡県に生まれ、16歳の時サンフランシスコに渡った。後にシアトルに移住し、職を転々とした後、移民局(INS)の通訳として活躍した。当時のアメリカでは日本人は自分の財産を持ってなかったため、知り合いのアメリカ人の名義を借り、4人目の子どもが生まれた1933年頃、この家を購入した。嘉一郎氏は、家の東側に滝や池を設けた日本式の庭園「ロックガーデン」を造り、地下には書庫と日本から運んだ風呂を設置した。
1941年に太平洋戦争が始まると、嘉一郎氏はFMIからスパイ容疑をかけられ、ニューメキシコ州の戦犯収容所に贈られた。また、日系人はすべて強制的に収容所(Relocation Center)に移住させられ、家族全員が収容所生活を送ることとなった。この家は戦中も地元の人々によって守られ、戦後、二男が住んだ後、同じ日系人の元田清子氏に売却された。

●元田清子(1900~1987)
元田清子氏は1900年、山口の下松市に生まれた。1922年に清木文助氏と結婚、シアトルに渡ったが、文助氏は病気で亡くなり、クリスチャンだった元田永太郎氏と再婚する。
後に清子氏も洗礼を受け、伝道と同時に日系人の手助けなどもした。太平洋戦争中、夫妻は他の日系人と同じように収容所に移動させられたが、戦後、シアトルに帰り、1949年安武嘉一郎氏からこの家を購入、1階部分を教会に改造し、英語の苦手な日系1世のために日本語でミサを行った。また、この教会でのさまざまな活動は日系人の拠り所となった。 しかし、日本語のできる1世が徐々に減り始め、この建物も役割を終え、1984年明治村に移築された。
なお、この家の展示は1階部分が教会として使用された頃、2階部分は安武氏が暮らしていた頃の様子を再現している。

・愛知県犬山市内山1 博物館明治村4-38
公式ホームページ

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