皆春荘 (8 画像)
古稀庵に別邸を営んだ山縣有朋は周辺の人々にもこの地の別邸造りを勧め、庭造りに大きく関与することがしばしばだった。親しかった清浦奎吾(山縣有朋の側近、第23代内閣総理大臣)もこれを進められ、古稀庵に連なる2000坪の土地に別邸を設けた。これが大正2年、山縣に譲られ、有朋によって「皆春荘」と名付けられた。もとより庭園は山縣の造園であったと考えられている。庭は続いており、事実上、皆春荘は、古稀庵の一部に編入された。
庭造りのほかに、和歌では数多くの歌集を残すなど、軍人ながら風流を愛した山縣だったが、古稀庵にはひっきりなしに来客があり、山縣が想像した風流生活もままならなかった。皆春荘ができ、実務に忙殺される古稀庵の母屋や洋館とは別の、休息の別邸をやっと手に入れられたのである。
皆春荘では月の会もしばしば開かれた。早くに先の妻友子を亡くした後、事実上の妻として長年山縣を支えてきた貞子夫人は、和歌を詠み、踊り、琴や笛の音で山縣をいやした。正式の後妻となることを望まれたが、花柳界出身のため、当時の社会時事用で一旦養子に出てからという手続きが面倒だと一蹴した気丈な女性だった貞子は一人の女性として、「風流人」として山縣に愛された。古稀庵で最期に、山縣は貞子の手をとり「いろいろお世話になりました」と言って亡くなり、風流な日々の想い出深い皆春荘は貞子に受け継がれた。

●古稀庵跡

・神奈川県小田原市板橋852

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