芝川又右衛門邸 (41 画像)
芝川又右衛門邸は現在の西宮市甲東園に1911(明治44)年、大阪の商人芝川又右衛門の別荘として建てられた。設計者は当時京都工等工芸学校図案科主任で、後に京都帝国大学建築学科の創設者となる武田五一である。
芝川又右衛門は先代が大阪伏見町に唐物商(輸入業)「百足(むかで)屋」を開業し、三井八郎右衛門・住友吉左衛門などとともに1881(明治13)年の日本持丸長者鑑(かがみ)に、名を連ねた豪商の一人である。
又右衛門が1884(明治17)年に入手した甲(かぶと)山の東側に位置することから甲東園と名付けられた土地は、砂れきが多く稲作には不向きな土地であった。又右衛門は地質調査を行い、果樹栽培が適しているとの結果を得て、1896(明治29)年に芝川農園を開設し、1911(明治44)年には別荘としてこの建物を建築し、さらに日本庭園や茶室等を整え、関西財界人との交友の場とした。 現在、甲東園近くを通る阪急今津線(当時は阪神急行電鉄西宝線)は1921(大正10)年に開通していたが、当時甲東園には駅(停車場)がなかったため、芝川又右衛門は駅の設置を阪急に依頼し、設置費用と周辺の土地一万坪を阪急に提供した。この土地一万坪が甲東園一帯の土地開発の端緒となったといえる。
武田五一は1901(明治34)年から約2年半欧州へ留学し、帰国直後、貿易商・福島行信の依頼を受け、日本で初めて当時欧米で流行していたアール・ヌーボー様式を取り入れた住宅を設計した。その後、議院建築視察のため再度欧米視察をし、帰国後、芝川又右衛門より「洋館」の依頼を受け、ヨーロッパのグラスゴー派やウィーンのゼツェッションと数寄屋など日本建築の伝統とを融合したこの洋館を建てた。
この洋館は何度か増改築がなされており、現在確認できる範囲では、1916(大正5)年に邸内の照明器具のデザインが一新され、また庭内には山舟亭・松花堂など茶室が建てられ、庭園が整備された。また、1927(昭和2)年には和館増築に併せ、洋館の外装など今回見るような白っぽいスパッシュ風の壁に大きく変更された。日本における郊外住宅の魁ともいわれるものだが、1995(平成7)年1月17日の阪神大震災の際被害を受け、1995(平成7)年秋解体され、平成17年1月に修復工事に着手し、平成19年9月に竣工した。
芝川家の記録には、明治44年に完成した建物を見た家族の「畳がリノリームになっただけで、まるで洋館らしいところはない」という言葉が遺されている。外壁は杉皮張、1階ホールは聚楽壁に網代と葦簾を市松状に用いた天井が用いられ、2階の座敷には暖炉が設けられるなど、全体として和の中に洋があしらわれた意匠であったが、関東大震災後の昭和2年に、隣接地に和館を増築する際、耐火を意識し、外壁はスパニッシュ風な壁に変更された。 関東大震災の際、木造建築が火災で大きな被害を受けたことから、外壁にスパニッシュ風な壁を用いることが大正末から昭和初期にかけて、特に関西を中心に大流行した。日本でスパニッシュと呼ばれる建築様式は、スペイン建築ではなく、スペイン系建築様式の影響を受けたアメリカの建築様式に影響を受けたものである。 武田五一は終生この芝川邸と深い関わりを持ち続け、創建時および度重なる増改築の際の図面や家具の設計図が遺されている。

●芝川又右衛門
又右衛門は、多彩な活動を行った文人実業家で、唐物商をたたんだ後、友人の村山龍平(後の朝日新聞社長)らと国産初のランプ口金製造を行い、後に村山らとともに¥「大阪植林合資会社」を設立し、紀州での植林を行った。
趣味の世界では、漢詩をこよなく愛するとともに、俳句もたしなみ、さらに書や絵画にも卓抜した才能を示した。
また茶道にも関心が深く、「十八会」なるグループを結成し、毎月1回抹茶・煎茶を楽しみ、甲東園でも何度か盛大な茶会を催した。

・愛知県犬山市内山1 明治村3-68
公式ホームページ

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