三河男児歌碑 (2 画像)
この歌碑は、岡崎市出身の世界的地理学者志賀重昂(1863~1927)の業績を顕彰しようと、昭和35年12月岡崎市が建立したものである。
「三河男児の歌」は、薩長藩閥政府に牛耳られている明治の世相を慨嘆し、ひるがえって三河の風土にはぐくまれた歴史と偉人に想いをはせ、沈滞している三河人の士気を鼓舞して、英雄再びこの地にいでて日本の指導者たるべきことを説いたものである。

●三河男児の歌
汝見ずや段戸(だんど)の山は五千尺
雲巓(うんてん)天に参(まじ)って終古碧(しゅうこみどり)なり
又見ずや矢矧(やはぎ)の水は三十里
急湍石(きゅうたんいわ)を噛(か)んで矢より疾(はや)し
憶(おも)う昔孤軍峻険(しゅんけん)に拠(よ)り
勤王を唱え妖厴(ようえん)を払わんと欲す
借問(しゃもん)す当時将たる者は誰(た)ぞ
足助の次郎臣重範(しげのり)
須臾(しゅゆ)にして賊兵の勢は雷(らい)の如く
千騎万騎山を撼(ゆるが)して来る
我が軍奮戦して弓劍(きゅうけん)砕け
七分は難に死し三分は潰(つい)ゆ
潰(つい)ゆる者は辱(はじ)を忍んで隴疇(ろうちゅう)に匿(かく)れ
臥薪嘗胆仇を報いんと欲(ほっ)す
機や到らず余烈(よれつ)在り
鬱々久しく待つ天定まるの秋(とき)
吁嗟(ああ)上帝の眼(まなこ)は朦朧(もうろう)たらず
忽(たちま)ち此の土に英雄を降す
矢矧(やはぎ)の水は清く段戸の山は秀でたり
鐘霊(しょうれい)孕(はら)みだす東照公
撥乱(はつらん)反正皇猷(せいこうゆう)を賛(たす)け
舜雨堯風(しゅんゆぎょうふう)六十州
何ぞ料(はか)らん治極(ちきわ)まって人心弛(ゆる)み
文括武熈(ぶんてんぶき)表裏(おもてうら)に変ずるを
天下の大勢西南に趨(おもむ)き
三河の佳気(かき)恐らく長(とこしな)えに己(や)まん
挽回(ばんかい)豈(あ)に時無からんや
復興必ず期有り
吁嗟(ああ)段戸の山は誰(た)が為に高く
矢矧(やはぎ)の水は誰(た)が為に号(さけ)ぶ
三河男児其れ行け
三河男児須(すべから)く奮起すべし

●本多光太郎資料館
●志賀重昂像
●志賀重昂の墓

・岡崎市欠町字大山田1
公式ホームページ

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