森鷗外・夏目漱石住宅 (66 画像)
明治中期のごくありふれた建坪39坪(129.5平方メートル)あまりのこの建物には、数々の由緒が遺されている。
明治20年頃、医学士中島襄吉の新居として建てられたものであるが、空き家のままであったのを、明治23年森鷗外が借家、1年余りを過ごした。又、1903(明治36)年から同39年までは夏目漱石が借りて住んでいた。
鷗外はこの家では「文づかひ」等の小説を執筆し、文壇に入っていった。ドイツの学会では「日本家屋論」を発表したが、これは日本の家について、欧米から「不衛生」等と指摘されることに反駁(はんばく)するための論文であったが、認めざるを得ない点として、次のように示している。「家が低く、立ち机には向かない。畳は不衛生な材料である。家の構造そのものが暖房に向いていない」と。その後鷗外は、ここから団子坂上の観潮楼へ移っていった。
一方、約13年後に住んだ漱石は、ここで「吾輩は猫である」を発表、文壇にその名を高めた。文中ではこの家の様子をよく描写しており、「猫の家」と呼ばれ親しまれた。この地で、「倫敦塔(ろんどんとう)」「坊ちゃん」「草枕」などの名作を次々に発表し、一躍文壇に名をあらわした。漱石文学発祥の地である。
住宅としては玄関脇の張り出した和室(書斎)、台所から座敷への中廊下は住宅の近代化の先駆けとみることができる。
なお。漱石が住んでいた頃、書斎の東北隅に幅6尺・奥行3尺で西向きの押入があったことを示す痕跡が発見されたが、資料不足のため復元を行っていない。

●森鷗外と正岡子規
1892(明治25)年に日本新聞社の記者となった正岡子規は、担当する文芸欄を舞台に俳句革新に取り組む。明治27年、日清戦争が始まると各新聞社は競って選り抜きの記者を従軍取材のため戦地へと派遣し、戦況報道が誌面をにぎわせていた。
子規も新聞記者として自分の見たままを報道したいと、従軍を希望したが、結核を患っていたため、周りの人々は従軍をやめるよう説得したが、子規の決意は固く日清戦争末期の明治28年4月10日に中国に向けて出発した。子規は、従軍が決定したときの気持ちを「小生今迄にて尤も嬉しきもの」と述べている。
4月15日に遼東半島へ上陸、近衛師団に従軍して過酷な環境のなか旅順と金州を取材し、「陣中日記」として随筆を新聞「日本」に連載する。また、従軍取材中に第二軍兵站(へいたん)軍医部長として森鷗外が金州の司令部にいることを知った子規は、5月4日と10日に鷗外のもとを訪れ、俳句について語り合った(鷗外が日清戦争従軍中に記した「徂征日記」による)。5月10日には、日清講和条約の批准が成立し、帰国する子規が別れのあいさつに来たことが記されている。また、子規の「病床日誌」には5月4日から毎日のように訪れたとある。
帰国後の明治29年1月3日、鷗外は根岸の子規庵で開かれた俳句会に参加した。このときには、松山中学校教師であった夏目漱石も参加しており、近代文学史上において画期的な俳句会となった。
その後も子規と鷗外の二人の文学交流は続いた。

●森鷗外・夏目漱石旧居跡

・旧所在地:東京都文京区向丘2-20-7
・愛知県犬山市内山1 博物館明治村1-9
公式ホームページ

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