太田南畝終焉の地・岩崎弥之助邸跡 (5 画像)
●太田南畝終焉の地
太田蜀山人は、名は覃(ふかし)、通称直次郎・七左衛門、南畝・四方山人などの号を称した。1749(寛延2)年に江戸の牛込に生まれ、勘定所の役人として支配勘定まで登用され、大阪銅座、長崎奉行所への赴任などの役目を歴任した。また幼少期から学問を好み、文筆に優れた才能を発揮した。1767(明和4)年に狂詩集「寝惚先生文集」が評判となり、寛政初年までは「万載狂歌集」、洒落本「甲駅新話」を発表し、のちに随筆「半日閑話」、「一話一言」を執筆した。1812(文化9)年に当地に移り住み、1823(文政6)年に没するまで過ごしている。

●岩崎弥之助邸跡
岩崎弥之助は1851(嘉永4)年土佐国に生まれ、1874(明治7)年後藤象二郎の長女早苗との結婚を機に、当地の洋館に住んだ。1885(明治18)年に三菱第2代社長に就任し、三菱社を設立して本社を当地に置いた。弥之助は、鉱業、造船を中心に、銀行、保険、倉庫業にも力を注ぎ、経営の多角化を行った。また丸の内や三崎町の官有地を買い取り、それぞれにオフィス街や繁華街を計画した。弥之助は文化・芸術を好み、収集した図書を母体とした靜嘉堂文庫を当地で設立し、東洋固有の文化財の収集を行った。
淡路坂沿いの当敷地内の石垣は、岩崎弥之助邸があった明治時代に造られた神奈川真鶴産の小松石の石垣を再利用したものである。「切り込みハギ」と呼ばれる積み方や「江戸切り」と呼ばれる石垣角部のノミ加工など、近代城郭で発展した石垣構築技法を見ることができる。
また、2つの説明板の煉瓦は弥之助邸擁壁の煉瓦を保存・再利用したものである。

・東京都千代田区神田駿河台4-6

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