酢屋(坂本龍馬寓居跡) (7 画像)
幕末、当時六代目嘉兵衛は材木業を営む傍ら、角倉家より大阪から伏見、そして京へと通ずる高瀬川の木材独占輸送権を得て、運送業をも掌握していた。当時、家の前の京劇は高瀬川の舟入で、高瀬舟が出入りしていた。岸には納屋が建ち、舟の荷あげをしていた。高瀬川の川ぞいには各藩の藩邸が建ち並び、各藩との折衝や伏見そして大阪との連絡にも格好の地であった為、龍馬は「酢屋」に身を寄せていたのである。嘉兵衛は龍馬の活動に大変理解を示し、その活動の援助に力を注いでいた。
龍馬は家の者から「才谷さん」と呼ばれ、二階の表西側の部屋に住まいしていた(現在のギャラリー龍馬)。当時の面影を残す二階の品格子より龍馬は向いの舟入にむけてピストルの試し撃ちをしたという。
遭難の年(慶応3年)の6月24日には、姉・乙女に宛てた手紙の中で酢屋に投宿している旨を伝えている。又、この家に海援隊京都本部を置き、隊士、陸奥宗光、長岡謙吉、等数多くの志士が投宿していた。11月15日龍馬遭難直後の天満屋事件もこの二階の一室に隊士が集まり事件が起こった。維新後、陸奥宗光は「酢屋」の家を訪れる時、当時を思い、感慨にむせんだと言われている。

・京都府京都市中京区河原町通三条下ル大黒町47
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