天明家 (10 画像)
天明(てんみょう)家は、鎌倉時代に下野国(栃木県)から現在の大田区鵜の木に移り住み、江戸時代には鵜の木村の名主役を勤めたと言い伝えられている。かつての家の外には大きなかまどがあり、屋号を「へっついさま」といった。大名が多摩川の鮎狩りなどに訪れるときは本陣を勤め、明治時代には役場として使用された。敷地の西側は江戸時代からの大切な農業用水であった六郷用水に面しており、約3000坪余りの広大な敷地を持つ屋敷であった。
天明家の入口である長屋門には1769(明和6)年の棟札があり、主屋も同時代の完成と推定される。天明家に残る文書には、長屋門が1806(文化3)年に建て替えられたとの記録がある。また、屋敷の西側は、主屋完成後に増築された書院造りの建物で、修理の記録から1808年以前には完成していたことがわかる。玄関には式台がついており、格式の高さをうかがうことができる。
書院の前には枯山水の庭園が築かれている。天明家ではこの庭園を大切に扱っていた。小金井公園に移築される際には石灯籠なども全て引き継がれたが、以前の庭園には西側に約2mほどの段差があり、その差を利用して枯滝が作られ、渓流の様子が表現されていた。
長屋門、飼葉(かいば)小屋などは、当時と同じ配置である。また、建築年は不明であるが、昭和の初め頃までは屋敷の東側に作業場、馬小屋、鳥小屋、米つき小屋が残っていた。また、庭に移築された稲荷では、昭和30年代まで毎年初午(はつうま)を行っていた。初午の日は幟(のぼり)を立てて近所の子どもを集め、菓子などを配ったという。
家の規模や造りから江戸時代の豪農の暮らしぶりが伝わる民家である。
天明家は、西ゾーンにある吉野家や八王子千人同心組頭の家などの民家と比べると複雑な平面形式をとっている。しかし、西側の「書院の間」や東側の「風呂およびへっつい」などは後年の増築であり、基本的には喰違い四間取りの平面である。建物は桁行8間、梁間5間で、屋根は西ゾーンの吉野家や綱島家と同じく寄棟造り茅葺きとしている。正面に千鳥破風をもつ。
作業空間である土間部分は前後2室に仕切られるが、その境部分は大正期に付加されたものであり、高橋是清邸三井八郎右衛門邸の仏間にもみられるような火灯窓をもつ。土間から床上に上がると喰違い四間取りの居住部分で、表(南)側が「広間」および「玄関の間」、裏(北)側が「居間」および「女中部屋」である。「玄関の間」の全面には吉野家や八王子千人同心組頭の家と同様に式台が設けられ、高い格式を示す。
主屋の正面には、開口部の両脇に室内空間をもった門が設けられている。こうした形式の門は長屋門と称され、大規模な農家や上層の武家住宅などに用いられたものである。
このような長屋門をはじめとして、式台付き玄関、書院造りの座敷、千鳥破風など、総じて豪農の高い格式が示された民家である。

※喰違い四間取り・・・民家の平面形式のうち、2室を2列に並べたものを四間取りというが、とくに間仕切りが十字形に通らないものを「喰違い四間取り」と称し、十字形の間仕切りをもつ「田の字形」と区別する。

・東京都小金井市桜町3-7-1
公式ホームページ

クリックして画像を拡大





トップページへ inserted by FC2 system