埋木舎 (43 画像)
●井伊直弼と埋木舎
井伊直弼は1815(文化12)年、11代藩主井伊直中の14男として誕生、5歳で母を、17歳で父を失ったので藩の掟に従い300俵の捨扶持で彦根城佐和口御門前の公館で、32歳までの15年間を暮らすこととなる。

「世の中を よそに見つつも 埋れ木の 埋もれておらむ 心なき身は」

直弼は和歌を詠じて、この館を「埋木舎」と号した。
直弼は「茶、歌、ポン(鼓・能)」とあだ名があったごとく、茶道、和歌、能は達人の域で、また国学、書、禅、湖東焼、楽焼などのほか、さらに武術、馬術、柔術、弓術など、文武両道の修練を1日4時間眠るだけで足ると埋木舎で励んだ。特に茶道は、埋木舎の茶室「澍露軒」において「茶道一会集」を記し、「一期一会」「独座観念」「余情残心」「和敬静寂」の極意を大成し、茶名を「宗鑑」とも「無根水」とも号した。

「茶の湯とて なにか求めん いさぎよさ 心の水を ともにこそ汲め」

埋木舎の庭の中の柳の風に逆らわぬを範として「柳王舎」「緑舎」ともいった。

「むっとして もどれば庭に 柳かな」

居合術は「新心新流」を創設し、「勝を保つためには滅多に刀を抜いてはならぬ」といって「保剣」とした。また「清涼寺」へも参禅し、仙英禅師に帰依して袈裟血脈さえも授与された。 直弼の一生の親友、国学者・長野主膳と三晩、人生論を語り合ったのも埋木舎であった。奥庭には楽焼の作業場や武道場の跡もある。庭には柳王観音堂もあり信仰も篤かった。更に、安産祈願の祠(ほこら)も残っている。
井伊直弼の埋木舎における偉大な人格形成があったからこそ、後に藩主となり、幕府の大老職として命をかけて国難を救う大器量が発揮されたのであろう。
埋木舎は、船橋聖一氏の小説「花の生涯」(毎日新聞連載)で井伊直弼が青春時代を暮らした館として登場し、さらにNHK大河ドラマ第一号となって有名となった。そのほか、映画、歌舞伎、テレビなどでも主舞台として大きく扱われた。直弼の生涯に関する小説に平成17、18年日経夕刊に諸田玲子氏「奸婦にあらず」連載あり。
昭和58年3月、礼宮文仁親王殿下(現・秋篠宮さま]学習院高等科時代、御尊来遊ばされる。

●大久保家と埋木舎
現在の埋木舎の当主「大久保家」は、先祖をたどれば藤原一族で徳川家康の祖父の時代より旗本として仕えていた。小田原城主大久保忠世や天下のご意見番大久保彦左衛門の従兄弟に当たる「大久保新右衛門尉藤原忠正」が現大久保家の初代である。
忠正は今川義元に従っていた井伊肥後守が徳川につこうとして殺されたので、その御子万千代(彦根初代藩主井伊直正)を2歳より御養育し、この縁で家康の命により大久保家は代々井伊家重臣として仕え、彦根の家老、中老、公用人などの側近を勤めた。
井伊直弼の時代、大久保小膳は藩主側近で江戸詰が多かった。直弼の名代として江戸に39回、京都へ13回、大阪は7回と各地を往還した。また、なお直弼の学問や茶道、楽焼、謡曲、武芸等の御相手役でもあり「宗保」の号を賜る。ペリー来航時相州警備、京都守護、佐野・日光等御巡見・御参詣の御供、直弼婚礼用掛も江戸藩邸で仕える。桜田門の変の時は正使として江戸より彦根まで早篭で4日で急を知らせた。
直弼逝去の後、小膳は子息・直憲の御養育や藩公文書の命がけの保存、さらに明治時代の廃藩による城郭解体から彦根城天守閣の保存運動を進める。これら長年の忠勤と功績により、明治4年、埋木舎は藩庁の文書により、井伊家より大久保家へ寄贈され、以来幾多の困難(水害、虎姫大地震、護国神社境内拡張の為の接収の軍部圧力等)を排し、代々大久保家で継承している。 現在当主大久保治男(駒沢大学大学院教授、法学部長、苫小牧駒大初代学長、武蔵野学院大学副学長、中央大、上智大講師等歴任)は井伊家より「埋木舎」を贈った小膳から五代目に当たる。「埋木舎」修復大工事も行う。

・滋賀県彦根市尾末町1-11
彦根観光協会公式ホームページ
井伊直弼と開国150年祭公式ホームページ

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