八木邸 (18 画像)
八木家は、壬生村きっての旧家で、かつて壬生郷士の長者をつとめていた。また、幕末には新撰組の近藤勇、土方歳三らの宿所となり、旧壬生屯所として知られている。 建物は、長屋門が東に開き、その奥に主屋が南面して建つ。当家に残る普請願から長屋門は文化元(1804)年、主屋は文化6年の造営として知られる。
主屋は、西端に土間を置くまで通し、土間に沿って居室を3室ずつ2列に配する。入口は土間部分に開くほか、東南隅に式台を備えた本玄関を配し、その北に仏間、奥座敷を1列に並べて格式ある構成をとっている。長屋門の外観は、腰に下見板を張り、与力窓や出格子窓を開くなど、昔のおもかげをよく残している。
壬生地区は今日市街化が著しいが、かつては洛中に近接した農村であり、当家は幕末期の農家の遺構として、また、新撰組ゆかりの建築として貴重であり、昭和58年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。

●新撰組発祥の地跡
ここは、幕末の頃、京都の浪士取締りや治安維持に活躍した新撰組の宿所があったところである。
文久3(1863)年春、将軍家茂の上洛警護のため、清河八郎の率いる浪士組が入洛したが、その宿舎の一つとして使われたのが、当時壬生郷の郷士宅であった当屋敷であった。浪士組は、在京20日余りで再び江戸に戻ったが、当所に分宿していた、芹沢鴨、新見錦、近藤勇、土方歳三らは、引き続き京都の警護のため残留し、京都守護職松平容保の支配に属して「新撰組」と名のった。 当初、新撰組は、当屋敷に「新撰組宿所」の標札を掲げ、隊員はわずか10数名で発足したが、次第に隊員が増加し、付近の農家にも分宿した。以後、市中の治安維持に努め、元治元(1864)年の池田屋事件で一躍その名を轟かせた。
翌年の慶応元(1865)年4月、屯所は西本願寺に移された。

●旧前川邸
●新徳寺
●壬生寺
●光縁寺(山南敬助の墓)

・京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町24
公式ホームページ

クリックして画像を拡大





トップページへ inserted by FC2 system