八坂神社 (41 画像)
当社は1868(慶応4)年5月30日付の神衹官達により八坂神社と改称するまで、感神院または祇園社と称していた。創祀については諸説あるが、656(斉明天皇2)年に高麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊(すさのをのみこと)を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるという。
また、一説には876(貞観18)年南都の僧円如が建立、堂に薬師千手等の像を奉安、その年6月14日に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に垂跡したことに始まるともいう。
伊利之来朝のこと、また素戔嗚尊が御子の五十猛神とともに新羅国の曽尸茂梨(そしもり)に降られたことは、ともに「日本書紀」に記されており、「新撰姓氏録」の「山城国諸蕃」の項には渡来人「八坂造(やさかのみやつこ)」について、その祖を「狛国人、之留川麻之意利佐(しるつまのおりさ)」と記してある。この「意利佐」と先に記した「伊利之」は同一人物と考えられている。伊利之の子孫は代々八坂造となるとともに、日置造(へきのみやつこ)・鳥井宿祢(とりいのすくね)・栄井宿祢(さかいのすくね)・吉井宿祢(よしいのすくね)・和造(やまとのみやつこ)・日置倉人(へきのくらびと)などとして近畿地方に繁栄した。
829(天長6)年紀百継(きのももつぐ)は、山城国愛宕郡八坂郷丘一処を賜り、神の祭祀の地とした。これが感神院の始まりともされている。そして、八坂造の娘を妻とし、男子のなかった八坂造家の職を継承したといわれ、その後裔である行円(ぎょうえん)は、1074(永保元)年に感神院執行となり、以後子孫代々その職を継ぎ、明治維新による世襲制の廃止まで続いた。
877(元慶元)年疫病が流行したので占ったところ、東南の神の祟りとされた。そのため各社に祈り奉幣が行われたが、一向に治まらなかった。さらに占ったところ、東山の小祠の祟りとわかり勅使を発遣、祈ったところ疫病の流行が止んだ。これが祇園社の発展の契機となり、僅か2年後の879(元慶3)年には陽成天皇より堀川の地十二町が神領地として寄進され、また同地の材木商人360人は神人に補せられ、経済的基盤が早くも確立した。
また、藤原氏の崇敬もあつく基経(昭宣)は、その邸宅を寄進、感神院の精舎としたと伝わり、道長もたびたび参詣した。藤原氏全盛時代の中心人物の崇敬は、当社の地位が次第に高まることにむすびついた。
円融天皇は、975(天延3)年6月15日に走馬・勅楽・御幣を奉られ、これ以後、祇園臨時祭が6月15日に継続執行されるようになったと考えられている。
そして、995(長徳元)年には、王城鎮護の社として尊崇された21社のうちの一社となり(のち22社)、1072(延久4)年3月24日には後三条天皇が行幸された。当社への天皇行幸の最初であり、以後、天皇・上皇の行幸はたびたびあった。
一方、武家の崇敬もあつく、平清盛の田楽奉納・源頼朝の狛犬奉納、また足利将軍家も社領の寄進・修造を行うとともに社務執行は将軍家代々の祈祷もつとめた。豊臣秀吉は母大政所の病気平癒を祈願し、焼失していた大塔を再建するとともに、一万石を寄進し戦国期に荒廃した当社の再興が進んだ。江戸時代には徳川家も当社をあつく信仰し、家康は社領を寄進、家綱は現存する社殿を造営、数多くの神宝類も寄進した。
1872(明治4)年に官幣中社に列格、1915(大正4)年には官幣大社に昇格した。

●祇園祭
京都三大祭の一つである祇園祭は、毎年7月に行われる当社の祭礼で、平安時代の869(貞観11)年に各地で疫病が流行した際に、当時の国の数に合わせて66本の鉾を立て、神泉苑(じんせんえん)に神輿を送り、その鎮まりを祈った御霊会(怨霊を退散させる祭り)を起源とするもので、970(天禄元)年ごろから毎年行われるようになった、
大晦日の夜から元旦にかけて行われる「おけら詣り」は、薬草である「をけら」を混ぜて焚いた「をけら火」を授かり、新年の無病息災を祈るもので、毎年多くの人でにぎわう。また、1月3日には十二単姿の女性による「かるた始め」が行われる。

●祇園社乱闘事件
八坂神社(当時は祇園社)の境内で、平清盛に関わる乱闘事件があった。
時は1147(久安3)年6月15日、祇園臨時祭(祇園御霊会、現在7月24日に行われている還幸祭の翌日に当り、朝廷から奉幣が行われた)の日の事である。
中務大輔平清盛は心に秘めた宿願を果たさんと、祇園社に田楽を奉納する。
この田楽を守護していたのが清盛の郎等達、兵仗を帯び祇園社へと赴いた彼らにこの後思わぬ事態が待ち受けている。
武装した彼らを見、祇園社の神人(下級神職)はその解除を求める。しかし清盛の郎等はその要求を受け入れず、ついには乱闘へと発展、祇園社の権上座隆慶をはじめ負傷者まで出る始末。乱闘騒ぎは深夜にまで及びさらにこの後も尾を引く。
6月26日になって祇園社の本寺であった延暦寺はこの乱闘の事を訴える。これに対し播磨守平忠盛は乱闘の下手人7人をすぐさま検非違使に引き渡す。事態はこれで収拾するかに思われたが、延暦寺衆徒の怒りは治まらない。
28日、延暦寺の衆徒と日吉・祇園両社の神人は清盛と父・忠盛の流刑を訴え神輿を舁(か)いて入洛しようとする。神々の神意の体現とされた神輿の動座を伴う強訴(神輿振り)は当時人々に大変恐れられていた。これに対し鳥羽法皇は「道理に任せ裁許する」と回答し、ひとまず彼らを帰山させる。
しかし中々裁許は出ない。洛中には衆徒が再び入洛しようとしているという声が頻繁に聞こえてくる。
事件の実検などを行った法皇が、清盛の罪を決したのは8月5日になってのことで、その内容は贖銅(しょくどう・実刑に代わり銅を納めること)という軽いもので、忠盛・清盛と鳥羽法皇との関係の深さを物語る歴史の一幕であった。
さて、乱闘事件の顛末では平忠盛・清盛父子を擁護した鳥羽法皇は、祇園の神に対する謝罪を何度も行っている。中でも1148(久安4)年2月20日には法華八講が修され、これが当社における法華八講の初見となった。

●新撰組と八坂神社
西門前の石段下で、新撰組隊士大石鍬次郎の実弟で、一橋家家臣の大石造酒蔵が口論のあげくに新撰組隊士今井祐次郎に斬殺されるという事件があった。また、新撰組七番隊長で、実弟を近藤勇の養子にしたせいか隊内での横暴が目立った谷三十郎もここで急死した。斎藤一が近藤の密命を受けて斬ったともいうが、真相は不明。

・京都府京都市東山区祇園町北側625
公式ホームページ

クリックして画像を拡大





トップページへ inserted by FC2 system