湯島聖堂 (38 画像)
徳川5代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、1690(元禄3)年湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林羅山邸にあった孔子廟(先聖殿)と林家の家塾をここに移し、先聖殿を大成殿と改称して孔子廟の規模を拡大・整頓した。これが現在の湯島聖堂の始まりである。綱吉自らも論語の講釈を行うなど学問を奨励した。その後、およそ100年を経た1797(寛政9)年幕府直轄学校として、世に名高い昌平坂学問所(昌平黌ともいう)を開設した。この時の設計は、かつて朱舜水(中国明朝の遺臣)が水戸徳川光圀のために製作した孔子廟の模型が参考にされた。また、これまで朱・緑・青・朱漆などで彩色されていたものを黒漆塗りとした。
孔子は2500年ほど前中国の魯の国(今の山東省曲阜市)昌平郷に生まれた人。その教え「儒教」は東洋の人々に大きな影響を与えた。
明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管するところとなり、当初、学問所は大学校・大学と改称されながら存置されたが、1871(明治4)年これを廃して文部省が置かれることとなり、林羅山以来240年、学問所となってからは75年の儒学の講筵は、ここにその歴史を閉じた次第である。ついでこの年わが国最初の博物館(現在の東京上野にある東京国立博物館)が置かれ、1872(明治5)年には東京師範学校、わが国初の図書館である書籍館が置かれ、1874(明治7)年には東京女子師範学校が設置され、両校はそれぞれ1886(明治19)年、1890(明治23)年高等師範学校に昇格したのち、現在の筑波大学、お茶の水女子大学へと発展してきた。このように、湯島聖堂は維新の一大変革に当たっても学問所としての伝統を受け継ぎ、近代教育発祥の地としての栄誉を担った。
1922(大正11)年湯島聖堂は国の史跡に指定された。それまで4回もの江戸大火にあって焼失、再建を繰り返したが、翌1923(大正12)年9月1日関東大震災が起こり、わずかに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失した。この復興は斯文会が中心となり、1935(昭和10)年工学博士東京帝国大学伊東忠太教授の設計と㈱大林組の施工により、寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで再建された。 この建物が現在の湯島聖堂で、1986(昭和61)年度から文化庁による保存修理工事が、奇しくも再び(株)大林組の施工で行われ、1993(平成5)年3月竣工した。祀られる孔子像は、朱舜水亡命時に携えて来たものが大正天皇に献上されていたもを御下賜された御物である。
また、孔子を祀る祭典である釈奠(セキテン)は、江戸時代には春秋2回、現在では毎年4月の第4日曜日の午前10時より、神田神社神官により執り行っている。

●昌平坂学問所跡
1797(寛政9)年幕府は学舎の敷地を拡げ、建物も改築して、孔子の生まれた地名をとって「昌平坂学問所」(昌平黌ともいう)を開いた。
学問所は、明治維新(1868年)に到るまでの70年間、官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を果たした。
学問所教官としては、柴野栗山、岡田寒泉、尾藤二洲、古賀精里、佐藤一斎、安積艮斎、鹽谷宕陰(しおのやとういん)、安井息軒、芳野金陵らがおり、このうち佐藤一斎、安積艮斎らはこの地が終焉の地となっている。

●湯島聖堂と斯文会
斯文会は、1880(明治13)年、東洋の学術文化の興隆を意図した岩倉具視が、谷干城らとはかって創設した「斯文学会」を母体として、これが発展して1918(大正7)年財団法人斯文会となったもので、孔子祭の挙行、公開講座の開講、学術誌「斯文」の発行などを中心に活動を行ってきた。関東大震災で焼失した湯島聖堂についても斯文会が中心となって、聖堂復興期成会を組織し、全国に募金を展開して1935(昭和10)年再建を果たし、その建物を国に献納、国はその管理を斯文会に委託した。1956(昭和31)年、新たに制定された文化財保護法に基づき、改めて斯文会は史跡湯島聖堂の管理団体に指定されている。

・東京都文京区湯島1-4-25
公式ホームページ

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