坐漁荘 (96 画像)
西園寺公望は1870(明治3)年法学を学ぶため渡仏、10年間滞在した後帰国し、中江兆民等と東洋自由新聞を発刊、ブルジョア自由主義の普及に努める。廃刊後は政府に入り、憲法調査のため伊藤博文に従って外遊、次いで各国公使、各大臣を歴任し、1906(明治39)年には伊藤博文のあとを受け、政友会を率いて内閣を組織した。その政治姿勢は終始平民主義を貫き、その後、我が国の元勲と呼ばれるにいたった。
この「坐漁荘」は西園寺公望が政治の第一線から退いた後、1920(大正9)年に駿河湾奥、清水港近くの興津の海岸に建てた別邸である。旧東海道に沿って建てられた低い塀の奥に、玄関、台所、二階建座敷等の屋根が幾重にも重なる。木造桟瓦葺で軒先に軽い銅板を廻らした純和風建物であるが、小屋組には強い海風に耐えられるよう工夫がみられ、梁を斜めに渡し、鉄筋の水平筋違いを十字に張っている。
「坐漁荘」の名には「なにもせず、のんびり坐って魚をとって過ごす」という意味がこめられていたが、実際には事あるごとに政治家の訪問を受けざるを得なかった。
それでも、一人でトランプに興じたり、ドライブを楽しむこともあった。車好きで、4年に1度は車を買い替え、ダイムラー、キャデラック、パッカード、リンカーンと乗り継いだというエピソードも残る。特別扱いされるのを嫌い、興津では、理髪店や、書店に一人で出かけた。
だが、時代がそれを許さなくなっていった。昭和初期、要人の暗殺も相次いだ。「坐漁荘」の警備も厳重になり、二・二六事件勃発時には、60名もの警官が専任で警備に当たり、海には沿岸警備船までが待機した。竹の窓格子の内部には、暴漢対策として鉄棒を隠していたほど、不穏な世相であったのである。

●坐漁荘

・旧所在地:静岡県静岡市清水区興津清見寺町115
・愛知県犬山市内山1 博物館明治村3-27
公式ホームページ

クリックして画像を拡大





トップページへ inserted by FC2 system