石橋邸 (3 画像)
吉田悦蔵の妻・清野夫人が婦人教育のために発足させた近江家政塾として使用された。

●近江ミッション婦人部の活動
ヴォーリズの両親は住みなれた故国を去り、1914(大正3)年3月にヴォーリズと悦蔵を含めた4人で横浜に着いた。この時ジョン・ヴォーリズ(1853~1925)は62歳、ジュリア・E・ヴォーリズ(1858~1946)は58歳だった。近江ミッション創立まもない1915(大正4)年之「湖畔の聲」3月号に八幡婦人伝道消息が載っていて、ジュリア・ヴォーリズが、もう一人の女性宣教師とともに八幡近郊の26家庭を訪問伝道した件と、このころにはすでに定例化していた料理会の開催が報告されている。池田町に建った吉田邸は、近江ミッションのもうひとつの中心であり、迎賓館としての機能ととともに、さらに吉田悦蔵の妻・清野を中心とする婦人部の本部となっていた。もともと近江ミッションの婦人たちの活動は、悦蔵の母・吉田柳子とジュリア・ヴォーリズ、ウォーターハウス夫人、ヴォーゲル夫人たちを核に、料理や英会話の教室などが行われた。近江ミッションの女性陣の数は次第に多くなり、大正9年には弥生会が組織され、大正10年には満喜子、清野、村田夫人などを中心として20名を超え、教会婦人会とも協力をして数々の講習会を開いていく。その結果、近江ミッションの中で婦人部が確立し、本部からの予算が明確になって、従来の婦人部伝道に加えて近江療養院の患者訪問、さらに英会話や編物手芸、ピアノの指導を始めた。また、体操といった啓蒙活動も盛んで、特殊なものでは西川はま子との関係からと予測される「ろうあ教育」など、社会課題の下支えとなるような教育に対する意志が具体的に表れてきた。

●近江家政塾
近江ミッション婦人部の活動で人気のあったのは、吉田悦蔵の妻・清野が指導する料理教室であった。各地の要望に応じて清野は出張し、意欲的に働いた。回数も人数も増えるにつれ、会場はウォーターハウス邸で開かれるようになり、台所機器などは近江セールスがアメリカより直輸入した最新のものが揃えられ、調理器具類もアメリカ製の珍しいものが用意された。ウォーターハウス夫妻が1924(大正13)年1月にアメリカに帰った後は、清野が自邸に料理教室を移し、時勢にのって経済的に余裕のある近郊の良家の子女を中心に生徒が増え、近江家政塾は1933(昭和8)年10月に清野の料理教室を基盤に創立された。最初の2年半は、吉田邸で引き続き料理をはじめ、手芸や編物などが教授されたが、やがて本館が吉田邸の隣地に私費を投じて建設された。しかし、1942(昭和17)年になると材料も思うように入手できなくなり、夏に突如としてその歴史の幕を閉じ、その後、家政塾の形態は再建されることがなかった。清野は1948(昭和23)年60歳の生涯を閉じた。

●吉田悦蔵邸
●ウォーターハウス邸
●旧近江ミッションダブルハウス

・滋賀県近江八幡市池田町5

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