ウォーターハウス邸 (14 画像)
米国の名門プリンストン大学文学科を卒業したウォーターハウス(Mr. Paul. B. Waterhouse)は、早稲田大学英語科の講師として来日した。父は南カリフォルニアの別荘の町パサディナの市長であった。
彼はヴォーリズに出会いその人格、働きに共鳴して、近江伝道に協力するため米国ハートフォード神学校で3年間の修業を終え来日し、東京で1年間日本語を習得して1913年10月6日に夫婦で来幡し自給独立して近江ミッションに加入、神の国運動の働き手となった。1913年5月、ヴォーリズ合名会社は社宅2棟を建築したが、そのうちの1棟にウォーターハウス一家は入居した。その建物は現在も旧ウォーターハウス邸と呼称している。
湖畔伝道船ガリラヤ丸の常時乗組員として、ヨットの操縦が巧みであったウォーターハウスは船長となり武田猪平牧師、西澤正治と共に、ヴォーリズ、吉田悦蔵等と湖畔の村々町々をくまなく巡回伝道しキリストの福音の種をまいた。4年半の伝道活動後、1918年3月、一旦帰米し排日運動のさかんな米国にあって日系人の人権保護のため4年間に亘り米国全州を東奔西走した。カリフォルニアの日系人達は感謝の気持ちを表すために感謝状と3000円を拠金して、立派な自動車を彼に贈呈した。
彼はこれを近江における伝道用として持参した。1922年5月、夫人と三児を伴い自給独立して伝道するため再びヴォーリズの仲間に加わった。夫人の母ピーク女史も近江八幡に来て、近江伝道のために大いに援助を惜しまなかった。しかし、1923年12月、永年熱心に福音伝道に従事した近江を後に、一家は神戸港出港のエンブレス・オブ・ロシヤ号に乗船、アメリカに帰っていった。これは、長男ゴルドンが事故で亡くなったことや夫人の健康が優れなかったことが原因と言われている。近江の山間僻地まで、くまなく伝道巡回した福音の使途ウォーターハウス一家を失うことは、近江ミッション、とりわけヴォーリズにとっては無限の寂寥(せきりょう)を感ずるものであったと彼の自叙伝に記されている。
一家が約6年間居住した池田町の住宅は95年が経過した今もその姿をとどめ、住宅としての利用目的を終えた後も、その内部空間の広さ、テニスコートの場所を小さな運動場としても使用できることから1833(昭和8)年に創設された近江勤労女学校やそれを前身とし1947(昭和22)年に新制へと移行した近江兄弟社女学校では校舎として使用された。
(財)近江兄弟社は2008年6月より傷みが目立った住宅を全面修復し、2009年1月14日に竣工式を行った。
住宅はアメリカの伝統的な建築様式であるコロニアル・スタイルで、3階建て11室よりなり、ビルトインタイプの暖炉が5ヵ所、煙突が2ヵ所有り、約100年前の美しいヴォーリズ建築がよみがえり、洋館街の中でも一際目を引いている。住宅は有形登録文化財に指定される予定であり、以後「ウォーターハウス記念館」と名称を変えて公開している。

●石橋邸
●吉田悦蔵邸
●旧近江ミッションダブルハウス

・滋賀県近江八幡市池田町5
公式ホームページ

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