清閑亭 (70 画像)
清閑亭は貴族院副議長・枢密顧問官などを務めた侯爵黒田長成(1867~1939)の小田原別邸として1906(明治39)年に設けられた。現在、数寄屋書院造の母屋と海への眺望に優れた庭園が残されている。建物は木造平屋建(一部2階)入母屋造りの和風建築で、母屋は数寄屋書院造となっており、大正初期頃の様式を備え、かつての庭園(邸宅・庭園)の趣を伝えている。
1907(明治40)年には隣に閑院宮別邸が設けられ、宮家と黒田家とは交流を深めていた。清閑亭周辺は「天神山」と呼ばれ、箱根からのびてきた尾根の先端部である。この地には黒田家や閑院宮家のほか、山下家(旧山下汽船創業者)、北原白秋など、多くの文化人や実業家、政治家や軍人が別邸・別荘をかまえていた。
建物全体は格式ばらない数寄屋造りで、その結構は「雁行型」と呼ばれた。これは棟が斜に並ぶ姿を空を飛ぶ雁にたとえたもので、桂離宮や二条城にも見られる。
南の庭から建物を見返すと、平屋建ての部分と二階建の部分の屋根がほぼ同じ高さに見える。これは平屋部分の「建ち(天井)」が高いだけでなく、屋根に「むくり(まるみ)」が付いているためである。
その後、1946(昭和21)年から1963(昭和38)年までは東京国立博物館長などを歴任した浅野長武が住まい、東洋学者ルネ・グルッセ、松永安左ヱ門ら著名人も数多く訪れた。その後、第一生命保険会社の施設として使われ、母屋は2005(平成17)年7月に国の登録有形文化財となり、2010(平成22)年6月から小田原庭園文化の交流拠点として公開されている。

●黒田長成(1867~1939)侯爵
慶応3年、福岡藩主黒田長知の長男として、現在の福岡県に生まれた。明治維新後、福岡から東京へ上京し、1878(明治11)年に慶応義塾へ入学。1880(明治13)年に慶応義塾を中退し、1888(明治21)年英国ケンブリッジ大学に留学、1887(明治20)年に学士号を取得し卒業する。
その後、宮内省の式部官、貴族院議員、修猷館(しゅうゆうかん・福岡藩の藩校で、現福岡県立修猷館高等学校)の第3代館長を経て、1894(明治27)年から1924(大正13)年までの約30年間にわたり、貴族院副議長を務めた。また、菅原道真や豊臣秀吉の旧跡を保存する菅公会・豊国会の活動にも尽力した。1924年に枢密顧問官に任じられると、以後、終生その官に身を置き、1939(昭和14)年亡くなった。
黒田は号を桜谷(おうこく)とし、漢詩集「桜谷集」をはじめ、多くの漢詩や書を遺している。また、東京都港区赤坂の本邸のほか、福岡市、小田原市、沼津市にも別邸を構えていた。

●小田原の庭園(邸宅・庭園)について
小田原の1889(明治22)年に本町4丁目の海岸に伊藤博文が別邸滄浪閣を建設したことや、1900(明治33)年に小田原城跡に御用邸が設けられたことなどが契機となり、戦国の雄北条氏や豊臣秀吉が築いた石垣一夜城の遺る小田原を好んだ政財界人・文人の邸園が数多く開かれた。特に広大な小田原の遺構群は北条氏や豊臣秀吉などの英雄をしのばせる場所として好まれ、土塁からの眺めや土塁と堀の起伏をいかした邸園がつくられていった。
小田原城周辺では、南町や板橋に多く別邸があったが現在も清閑亭をはじめ、南町の田中光顕伯爵別邸(現・小田原文学館)や板橋の松永安左ヱ門別邸(現・小田原市郷土文化館分館松永記念館)などが保存・公開されている。

・神奈川県小田原市南町1-5-73
公式ホームページ

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