本多光太郎資料館 (8 画像)
「つとめて やむな」
この一語は本多光太郎が学校の子どもたちに贈ったことばである。本多は恩師長岡半太郎の「秀才であることより、努力家であることが大切だ」との教えを実践した人でもある。
1870(明治3)年2月23日岡崎市新堀町字大庭において、農業本多眞三郎の三男として生まれる。
明治10年桑子小学校に入学、同14年随念寺の高等小学校に進学するも学校嫌いで成績も悪かった。後、寺田松次郎の私塾に学び、その薫陶を受けて向学の志を立てた。
明治20年17歳の時上京、同27年東京帝国大学理科大学物理学科に入学、地球物理学、磁気学等を専攻、研究に終始した。
明治40年独英に留学、物理学の研究に没頭し努力と頑張りの4年間を過ごす。帰国後東北帝国大学理科大学教授となる。
大正5年理科大学理化学研究所主任となり、KS磁石鋼を発明、同年鉄に関する研究により帝国学士院賞を授与される。
昭和6年東北帝国大学総長となり、同8年KS磁石鋼より更に強力な新KS鋼を発明、「鋼鉄の父」とうたわれる。
昭和12年第一回文化勲章を授与される。同15年総長を退任、正三位勲一等瑞宝章を授与され、26年文化功労者に選ばれる。
1954(昭和29)年2月12日84歳で逝去、文字通り「研学修道」の一生を終え、勲一等旭日大綬章を賜わる。
昭和36年7月1日郷土が生んだ世界的物理学者として博士の偉業を讃え、岡崎市名誉市民に推挙される。
この建物は本多光太郎の勉強部屋(木造一部2階建、延87.9㎡)で、昭和44年に岡崎市新堀町の生家から寄贈を受け、この地へ移築され、平成4年に資料館として整備された。

●志賀重昂像
●三河男児歌碑
●志賀重昂の墓

・岡崎市欠町字大山田1
公式ホームページ

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